禅僧 万里集九、下櫓郷へ

ばんり_しゅうく

正長元年(一四二八)~没年不詳、生地不詳。室町時代の半僧半俗の詩人。はじめ相国寺派の僧であったが、応仁の乱勃発後、近江、美濃、尾張を流寓し、その間に還俗、美濃の鵜沼に住んだ。文明十七年 (一四八五)太田道灌に招かれて江戸に下り、庵を開いて梅花無尽蔵と号した。翌年鎌倉に遊び叢社と詩文の応酬を交わした。

延徳元年 (一四八九)五月五日、関東からの帰途、越中国吉野豕谷あたりの様子はこう書かれている。

「五日。出吉野。透過豕谷之關門。始甞飛騨州山川之嶮。預想皈岐陽之旧廬翫節分。今已齟齬。
朝猶越國、晝飛騨。此日旅行、晴疊蓑。預想還家、必斟緑。人生萬時巧違多。」

訳:
長享3年5月5日、吉野を出発し、猪谷の関所を通過し、初めて飛騨国の山川の険しさを体験する。岐陽のもと居たところで五月の節分を迎えようと思っていたが、今日が5日でありすでに計画とは食い違ってしまった。
朝は越中の国であったが、昼には飛騨の国へ入った。この日の旅行は晴れたので、蓑を畳んだ。岐陽の家に帰ったら、必ず節句の酒を酌み交そうと思っていたが、人生は万事このようにまんまと食い違ってしまうことが多いものだ。

この時、集九67歳。

延徳元年 (一四八九)五月六日、飛州高原城下に到り、城主江馬某酒食を饗す、同七日、荒木安国寺に到り、集雲軒に泊し、翌日滞留、九日に江馬某人馬を給して之を送り、途中一泊、十日に国境龍ヶ峯を越え美濃郡上郡に出で、鵜沼へ帰る。

延徳三年(一四九一)八月某日、六三歳の集九は美濃国鵜沼春沢梅心翁とともに、飛州下櫓温泉に浴し、
温湯連句の作あり。二十余名の僧が従い、五十韻の連句が行われた。

集九その序を書し、文中宋人胡仔漁隠の記すを引いていう

「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者、下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」云々。

この時の様子は次の詩など。

「予在飛之温泉。々々所在、曰益田郡下櫓郷。南花丈有傳語而無箋。作詩責之云。熱湯□驗(霊驗)百痾除。僉曰濫觴延喜初。二十四亭、雲隔斷。唯聞傳語待無書。」

訳:
私は飛騨の温泉に居る。この温泉のある所は、益田郡下櫓の郷という。南花丈から伝言はあったが、手紙はなかった。そこで私は詩を作りこれを責めた。
この温泉は霊験あらたかな湯であり、どんな病気でも治ってしまう。その起源は延喜の初期であるという。
二十四の東屋は雲に隔てられて見えず、あなたの伝言は聞いたが、待てども手紙は来ない。

「山路楓葉 飛州湯中會

老眼年々、暗尚衰。温湯縦浴、奈難醫。露中不辨、聽人説。大半、山今紅葉枝。」


訳:
山路の楓葉(飛騨は下呂での会にて)
私の老眼は年々悪くなって、どんどん衰えていく。温泉に入ってもこれを治すことは難しい。
よく見えず霧の中に居るようなので、静かにして人が話すのを聞くと、誰かが「大半の山は紅葉の盛りですね。」といっている。


この老眼にとっては美しい紅葉が見えないので歯がゆい思いだろうが、当時の温泉のなん
とも長閑な雰囲気が偲ばれる。

 

*訳文は管理人による

集九のいう「霊湯」について

『日本仏教史』(辻善之助著)によれば古く風呂は寺のおこなった救済慈善の一環として作られていたという。

平安時代中期、我が国においては古くより救済慈善の業は政府においてその制度を立てて行ったのであるが、それが仏教の福田の趣旨によって促進勧奨せられたことも少なくないというのである。

温室(風呂)沐浴については寺院僧侶の手によって施設せられたことが多いが、それは『三宝絵図』の中に

「寺には月ごとに十四日と二十九日とに湯を沸かして遍く僧をして沐浴せしむ。これはその翌月に布薩
(犯戒の懺悔)を行うが為である。」

とあるように、心身を清める働きを見出していたからであった。また、温室の功徳を述べ

「七の病を除き、七の福を獲る事。」

を説いている。沸かした湯でさえ功徳あり、いわんや温泉をや、である。まさに、天然自然に湧きだす温泉は「霊湯」だったというわけである。