日本三名泉、天下三名泉の由来

下呂温泉は草津、有馬と並んで日本三名泉、天下三名泉の一つといわれていますが、どんな由来があるのでしょうか。少し歴史を見ていきましょう。

下呂温泉が位置している飛騨街道は古来険しい山中にあって、当時の歩荷や牛方などでも通行が容易ではありませんでした。その深山幽谷を『飛騨編年史要』の著者岡村利平は次のように形容しています。

 「東には乗鞍、槍ヶ岳等の峻嶺の聳ゆるあり、 西には白山山脈の連亘するあり、飛騨山塊の名を以って呼ばるる臺地なるを以って、 交通この如く便ならず、されば自然の大風景も近来までは多く知られず、史上の遺物は自然に保護せられたるなり。」 (『飛騨編年史要』序より)

まさに絶遠たる山に囲まれた飛騨だったのです。

下呂温泉の起源については延喜年中(901-923)とも天暦年中(947-957)とも伝えられており、 『飛州志』

「天暦年中、この地の山中に初て温泉湧出せり」

とあります。時は 醍醐天皇 の御代。 延喜元年(901)、 菅原道真 の子兼茂が 飛騨権掾 に任ぜられ、また延長五年(927) 年には、 延喜式により租税として 飛騨の匠 たち百名を送ったと中務省式に記されています。のちに、この山中の温泉は突然止まり 益田川 の河原へ移動して湧出したのでした。

最古の入湯の記録はどうかといえば、延徳三年(1491)、室町時代の五山の詩僧万里集九が最古で、詩文『梅花無尽蔵』に下呂温泉を草津、有馬と並ぶ日本三名泉、天下の三名泉、と讃えています。

万里集九に続く記録は天文十八年(1549)の美濃国遠山庄大圓寺住持の明叔和尚でした。明叔は八月中旬より九月下旬まで下呂に逗留し、禅昌寺 に七、八日泊しました。

続いての記録は元和七年(1621)四月二十五日、林羅山(林道春)です。羅山が三八歳の時、 摂津有馬温泉にて詩を作り、その註としてこう記しました。

「諸州多有温泉、其最著者、摂津之有馬、下野之草津、飛騨之湯島(現在の下呂温泉)是三処也。」

これらの評価が下呂温泉の名泉誉れの源となり、今に至っています。幼少より五山に儒仏を学んだ林羅山ですから万里集九を読んでいた可能性はあります。集九から羅山までの100年経っていますが日本三名泉の評価に変化はなかったようです。

(当時は下呂温泉という呼称はなく、「湯島」と記されています。今では「湯之島」という地名として残っています。 「下呂」という呼び方がどのように起こったかは、こちらを参照。)

2004年1月15日


























下呂という名の由来

下呂という不思議な名前、そして発音はどのようにして成立したのでしょう。下呂という名の由来について見ていきましょう。要約すると、下呂は古くは 下留(しもつとまり、あるいはしもとまり)と呼ばれて いましたが、時を経るに、「げる」からさらに 通称化されて「げろ」と発音されるようになったようです。

奈良時代後期、宝亀7年(776年)に宿駅として下留(しもつとまり)が置かれ歴史に登場します。 室町時代に書かれた万里集九の「梅花無尽蔵」には

「予在飛之温泉。々々所在、曰 益田郡 下櫓郷 。」

と あるので、この頃にはすでに「げろ」という発音であったと考えられます。ここで「しもとまり」という発音と すべて音読みの「げろ」の間にある変化は、飛躍といっても差し支えないでしょう。この飛躍が発生した要因として考えられるのは、飛騨が米の収量が少ないために「下々(げげ)の国」と呼ばれていたことが あげられます。地名に「下々」のイメージが重ねられ、「下(しも)」が「げ」と発音され、 この音読みに引きずられて「留(とまり)」は「る」となり、伝播するにしたがって「ろ」の発音に変化 していったのが下呂という名の由来なのか。あるいは、「下々」のイメージに引きずられるよりも、単に「しもつとまり」の発音が長すぎて言い難く、音読みして簡略化したのが由来なのか。 「呂」 についてはあきらかに「ろ」の発音に風呂の呂を重ねたのが由来ということでいいでしょう。

下呂の北側には 中呂 、 上呂 という地名もあります。しかし中呂も上呂(上留)も温泉 で栄えた呼称ではありませんので、下呂の呂にならって変えてしまったと思われます。

今では奥深い山国が自然という資源、観光資源として評価され、下呂というインパクトのある発音も広告効果の一端を担っています。豊かな自然と良い泉質の温泉、歴史的評価、名前の由来変遷など、下呂温泉の大事な要素ですね。

2004年2月17日








禅昌寺 天下十刹

  • 天下十刹とされた古刹、龍澤山禅昌寺。平安時代に恵心僧都源信が萩原町内の桜洞に庵を編み、観音菩薩の像を掘って霊場を開く。
  • その後、後円融天皇が皇后の安産のためにこの地に勅使を遣わし、皇子(後小松帝)の降誕をみたと伝えられる。これにより天皇は名を大雄山円通寺と改め、京から名僧を講じて開山させ、勅願所として帰依された。
  • しかし、足利氏が衰微、戦火がこの地にもおよび堂宇を焼失。享禄元年(1527)三木大和守直頼がこの由緒を敬慕し再興。妙心寺派の名僧、明叔和尚を講ずる。
  • 現在末寺11を数える、臨済宗妙心寺派の別格寺班である。

  • 建築物:
    • 本堂(文政12年再建)
    • 観音堂(文久3年改築)
    • 書院(文化7年補修)
    • 大庫裡(安永9年再建)
    • 勅使門(文化9年再建)
    • 山門(寛政7年再建)
    • 鐘楼(嘉永3年再建)
    • 龍翔庵(文政7年再建)
  • 文物:
    • 御円融帝御宸筆(色紙)
    • 後奈良帝御宸筆(短冊)
    • 開山明叔和尚真蹟(二副対)
    • 雪舟筆達磨像
    • 芦雪筆涅槃像
    • 狩野永徳筆菊花屏風
  • その他
    • 大杉(天然記念物:推定樹齢1200年)
    • 金森宗和による茶室と庭園

源信
942-1017(天慶5ー寛仁1)
平安中期の天台宗の僧。通称恵心僧都、横川僧都。985年に「往生要集」を著わす。これは鎌倉時代の浄土教成立の先駆的基礎。

後円融天皇
1358-93(正平13・延文3ー明徳4)北朝の第5代。

後小松天皇
1377-1433(永和3ー永享5)第100代。後円融天皇第1皇子。はじめ北朝の天皇として重祚、1392年に両朝合体成立。1412年院政。1431年出家。

禅僧 万里集九、下櫓郷へ

ばんり_しゅうく

正長元年(一四二八)~没年不詳、生地不詳。室町時代の半僧半俗の詩人。はじめ相国寺派の僧であったが、応仁の乱勃発後、近江、美濃、尾張を流寓し、その間に還俗、美濃の鵜沼に住んだ。文明十七年 (一四八五)太田道灌に招かれて江戸に下り、庵を開いて梅花無尽蔵と号した。翌年鎌倉に遊び叢社と詩文の応酬を交わした。

延徳元年 (一四八九)五月五日、関東からの帰途、越中国吉野豕谷あたりの様子はこう書かれている。

「五日。出吉野。透過豕谷之關門。始甞飛騨州山川之嶮。預想皈岐陽之旧廬翫節分。今已齟齬。
朝猶越國、晝飛騨。此日旅行、晴疊蓑。預想還家、必斟緑。人生萬時巧違多。」

訳:
長享3年5月5日、吉野を出発し、猪谷の関所を通過し、初めて飛騨国の山川の険しさを体験する。岐陽のもと居たところで五月の節分を迎えようと思っていたが、今日が5日でありすでに計画とは食い違ってしまった。
朝は越中の国であったが、昼には飛騨の国へ入った。この日の旅行は晴れたので、蓑を畳んだ。岐陽の家に帰ったら、必ず節句の酒を酌み交そうと思っていたが、人生は万事このようにまんまと食い違ってしまうことが多いものだ。

この時、集九67歳。

延徳元年 (一四八九)五月六日、飛州高原城下に到り、城主江馬某酒食を饗す、同七日、荒木安国寺に到り、集雲軒に泊し、翌日滞留、九日に江馬某人馬を給して之を送り、途中一泊、十日に国境龍ヶ峯を越え美濃郡上郡に出で、鵜沼へ帰る。

延徳三年(一四九一)八月某日、六三歳の集九は美濃国鵜沼春沢梅心翁とともに、飛州下櫓温泉に浴し、
温湯連句の作あり。二十余名の僧が従い、五十韻の連句が行われた。

集九その序を書し、文中宋人胡仔漁隠の記すを引いていう

「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者、下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」云々。

この時の様子は次の詩など。

「予在飛之温泉。々々所在、曰益田郡下櫓郷。南花丈有傳語而無箋。作詩責之云。熱湯□驗(霊驗)百痾除。僉曰濫觴延喜初。二十四亭、雲隔斷。唯聞傳語待無書。」

訳:
私は飛騨の温泉に居る。この温泉のある所は、益田郡下櫓の郷という。南花丈から伝言はあったが、手紙はなかった。そこで私は詩を作りこれを責めた。
この温泉は霊験あらたかな湯であり、どんな病気でも治ってしまう。その起源は延喜の初期であるという。
二十四の東屋は雲に隔てられて見えず、あなたの伝言は聞いたが、待てども手紙は来ない。

「山路楓葉 飛州湯中會

老眼年々、暗尚衰。温湯縦浴、奈難醫。露中不辨、聽人説。大半、山今紅葉枝。」


訳:
山路の楓葉(飛騨は下呂での会にて)
私の老眼は年々悪くなって、どんどん衰えていく。温泉に入ってもこれを治すことは難しい。
よく見えず霧の中に居るようなので、静かにして人が話すのを聞くと、誰かが「大半の山は紅葉の盛りですね。」といっている。


この老眼にとっては美しい紅葉が見えないので歯がゆい思いだろうが、当時の温泉のなん
とも長閑な雰囲気が偲ばれる。

 

*訳文は管理人による

集九のいう「霊湯」について

『日本仏教史』(辻善之助著)によれば古く風呂は寺のおこなった救済慈善の一環として作られていたという。

平安時代中期、我が国においては古くより救済慈善の業は政府においてその制度を立てて行ったのであるが、それが仏教の福田の趣旨によって促進勧奨せられたことも少なくないというのである。

温室(風呂)沐浴については寺院僧侶の手によって施設せられたことが多いが、それは『三宝絵図』の中に

「寺には月ごとに十四日と二十九日とに湯を沸かして遍く僧をして沐浴せしむ。これはその翌月に布薩
(犯戒の懺悔)を行うが為である。」

とあるように、心身を清める働きを見出していたからであった。また、温室の功徳を述べ

「七の病を除き、七の福を獲る事。」

を説いている。沸かした湯でさえ功徳あり、いわんや温泉をや、である。まさに、天然自然に湧きだす温泉は「霊湯」だったというわけである。

林羅山:湯島は三名泉のひとつ

林羅山とは

湯島(下呂温泉)を天下三名泉の一つに挙げた林羅山(一五八三ー一六五七)。江戸初期の幕府の儒官。林家の初祖。名は忠または信勝。のち剃髪して道春と号した。京都の町家に生れ、幼少より書物に親しみ、建仁寺で儒仏を学び、優れた記憶力により頭角を現した。十八歳の時、朱子の集注を読んで朱子学に志し、二二歳で藤原惺窩に師事した。まもなく惺窩の推薦で慶長十年(一六○五)家康に謁し、その信任を得、学問、政治上の諮問に応じ、また古書の収集、出版に従事した。以来、秀忠家光家綱と四代にわたる侍講として外交文書や諸法度の起草にあたり、特に教学制度の確立に寄与するところが多かった。寛永七年(一六三○)、幕府より土地と資金を与えられ上野忍が岡に学問所を建て、ついで同地に徳川義直より聖堂(孔子廟)を寄贈され昌平黌の起源をなした。幕命によって「本朝編年録」四十巻を編集、のちに子鵞峰により完成され「本朝通鑑」となった。

林羅山の書いた三名泉

万里集九は三名泉を草津・有馬・湯島の順序に置いたが、羅山は有馬・草津・湯島の順序で置いた。
これは有馬に入湯しての書であるゆえに順序が変わっている。もしも湯島に入湯していれば、
湯島が第一にあげられたはず。羅山先生、なぜ湯島にお越しにならなかったかと四百年前を惜しまずにはいられない。

下呂、白鷺橋上の林羅山像

92年4月25日に白鷺橋上で林羅山の銅像の除幕式が執り行われた。高さ160センチ、重さ200キロ。
1989年度に町の宿泊客が年間150万人を超えたのを記念して建立された。子孫の林智雄さんによると、羅山の銅像は全国でもここだけであるという。家康から4代の将軍に仕えた羅山は、一片の詩文によってここに像となる。

 

新宿区市谷山伏町の「林氏墓地」

国の史跡にも指定されている東京都新宿区市谷山伏町の「林氏墓地」は毎年十一月に一般公開されている。現地解説は新宿歴史博物館によって一日四回ずつ行われる。墓地がある市谷山伏町には、かつて林家の別邸があった。約三百六十平方メートルの敷地の中に羅山をはじめ代々の当主とその家族らの墓約八十基が残る。これらの墓石の中の四基は、儒葬と呼ばれる儒教の礼式に従った埋葬様式で、門柱のような石柱を墓石の前に立て、後方には木を植えるという極めて珍しい形態の墓となっている。

新宿区はこの墓地を、林家から購入し、毎年一般公開、入場無料。

 

岐阜県、飛騨地方の方言

岐阜県、飛騨地方の方言 対応する標準語
あいまち けが
あおなまず 青大将
あかん いけない
あじゃける たわむれる
あじない まずい
あっちゃ あちら
あば さようなら
あんだけ あれだけ
あんにゃま 兄さん
あんや 兄さん
あんね 姉さん
あんばよう、あんばいよう 具合よく
いいずら いいでしょう
いかつ なまいき
いかっせる 行かれる、いらっしゃる
いきせきる あせる
いける 埋める
いこす くださる
いしな
いっしょくた 混同、ごちゃまぜ
いっせき すべて、一番
いわっせる 言われる、おっしゃる
うそ ちがう
うぞけ 産毛
うんじゃみ 愚痴
うんた 私達
えらい つらい
えろう たいそう
えせらっこい 喉がかゆい
えったましい 油っこい
えんげ 縁側
おいた やめた
おいでる いらっしゃる、居られる
おうじょうこく 困る
おきんさい やめなさい
おくんさい ください
おこわ 強飯
おじや 雑炊
おぞい 悪い
おたる 鏡餅
おとつい 一昨日(おととい)
おとらかす 落す
おへぎ かきもち
おまはん あなた
おんし おまえ
おんぼ
おぶ おんぶする
かいろ かえる
かざ におい
かしょうけ 米を研ぐ桶
かすでもない なんでもない
かたみつ 交互に
かねする 堪忍する
からい 塩辛い
かわぼうず なまず
ぎざが悪い 縁起が悪い
ぎし ばかり、だけ
きちっと きちんと
きつねくさい さびしい
きまめ 甲斐甲斐しい
くすげる 突き刺す
ぐずる 駄々をこねる
く(こ)そばかす くすぐる
くそたれ 馬鹿
くつづる 熱心にやる
くど
くんさい 下さい
げえげ 嘔吐
げっそりこく がっかりする
けなるい 羨ましい
けろっとする ぼんやりする
ごをわかす 腹を立てる
こく 言う
こけ 茸(きのこ)
ござる いらっしゃる
こきすえる 叩く
こちがい 衝突
ごっさん おかみさん
ころっと すっかり
こぶり 小昼食
ごんぼほる 詮索する、強請する
さかしこ(ま) 逆さま
さきがた さきほど
さくまう 搾取する
ささって 明明後日(しあさって)
さんま たびたび
したべら、べろ
じだ 地面
しとねる 育てる
しみる 凍る
じゅるい(ずるい) ゆるい、ぬかっている
じょうり、じょり 草履
じんべ 腹掛け
すい 酸っぱい
すかくった 騙された
すがれる しおれる
ずくなし なまけもの
すだくる 奪う
ずつない 苦しい
すべくる 滑る
ずら だろう
ずれっこい ずるい
せがめる いじめる
せこ 横丁
せわない 簡単
そうそと 静かに
そりみやり それごらん
そんやで、そやで それだから
だいつう べっぴん、粋
たいもない 無茶な
ただまい 粳米(うるちまい)
だだくさ 粗末
だちかん、だちゃかん だめ
たばう 貯える
たらす 騙す
たんと たくさん
ちびっと、ちょこっと 少し
ちゃっと すぐに
ちょうらかす あやなす
ちょうすく 威張る
ちょうける おどける
ちんびきたい 小さい
つくなる、つくばる ひざまずいて座る
つばき
つらはらし ふくれつら
つるける つるす
つんばり 支柱
でかす つくる
つゆり 梅雨
でぶこく 喧嘩をしかける
でんち 胴着、袖なし
てんべつ 頂上
どいらなやつ 大きなもの
どうぞこうぞ やっと
どづく なぐる
どだい 全く
とへつもない 思いもよらぬ
とろい 馬鹿な
どんびき
なんで なぜ
なんちゅう なんという
なれる なさる
にかましいこたない たいしたことない
にすくたい 貧弱な
にわう 賑わう
ぬかす 言う
ぬくとい 暖かい
ぬたぐる 塗り付ける
ねえま
ねぐさる 腐る
ねつらい ねらう
ねんさ 神官
のたる 這う
のま 雪崩
はがええ はがゆい
はじかむ はにかむ
はだける ひろげる
はながいに かわるがわる
はむ かがむ
はんぞ 洗面器
びい 女児
ひきずり すきやき
ひきだ 蟇蛙(ひきがえる)
ひず 元気
ひだるい 空腹な
びりこく 縮み上がる
ひるまり 昼間
ふすべ ほくろ
ふとくら ふところ
ぶらくる つるす
ぶちこむ 投げ込む
ふんと 本当
へともない たいへん
へぐる めくる
へぼい 弱い
へぼしゃくれ 弱い
べろ(ら)
へんび
べんこらしい 生意気な
へんねしい 羨ましい
ほうたがい 困り果てる
ほかる、ほうくる 投げる、捨てる
ほじくる 掘る
ほーべた、ほーたんぼ
ほんね なるほど
ほける 老いぼれる
ぼっち 兄貴
まあはい、まあはや もう、やがて
まぐたなる とぐろを巻く
まぜてくれ 仲間に入れてくれ
まどろい 遅鈍
まわし 準備
みがえ 土産
みたらし 串団子
むかわり 一周忌
むたいき 一向に
むっご さなぎ
めたたき またたき
めめぞ みみず
めこじき 麦粒腫(ものもらい)
めんこ めだか
もずきち もず
もせもせにする ぼろぼろにする
もそい 弱い
ものけ 物置
もん 物、者
ゆうて 手拭い
ゆうなべ 夜仕事
ゆんべ 昨夜
やあけな 手荒い
やあこい 柔らかい
やくたいもない 汚い、みっともない
やけずり 火傷
やくと わざと
やっとかめ 久しぶり
やらしい はずかしい
ようけ たくさん
ようさ、ようさり
よぐる 走る
よこた
よっしろ、よっこど、よっぽど よほど
よど 涎(よだれ)
よらんしょ お寄りなさい
よわった 困った
らっしゃもない、だっしゃもない 不潔な、粗雑な
らんきょう らっきょう
りきむ 怒る
ろくざま ろくろく
わずり 草履
わっち わたし
われ お前

下記の参考文献を元に岐阜県、飛騨地方の方言について構成しましたが、現在では用法の変化もあるでしょう。

参考文献:瀬戸重次郎著『岐阜県方言集成』、尚学図書・言語研究所編『方言の読本』

なまりの資料:日本国語大辞典 第二版