温泉寺:白鷺伝説

温泉寺は寛文11年(1671)の創建。下呂市湯之島、中根山の山麓にある臨済宗妙心寺派の禅寺、医王山温泉寺。白鷺伝説にまつわる薬師如来像が本尊である。
薬師如来像は木彫の座像で高さ1メートル、作者不詳。月光菩薩、観音菩薩も木彫仏。本堂は寛文11年の建立。
観音堂、庫裡、鐘楼梵鐘。元禄期以降、蝦夷地開拓に力を尽した武川久兵衛の墓所でもある。

温泉寺の白鷺伝説

湯が峰にあった温泉が突然でなくなった翌年、川原に一羽の白鷺が居るのを見つけた村人はそこから湯が湧いているのを発見する。白鷺が飛び去った中根山の松の木の根元には薬師如来像があった。温泉寺ではその薬師如来像を奉る。

禅昌寺 天下十刹

  • 天下十刹とされた古刹、龍澤山禅昌寺。平安時代に恵心僧都源信が萩原町内の桜洞に庵を編み、観音菩薩の像を掘って霊場を開く。
  • その後、後円融天皇が皇后の安産のためにこの地に勅使を遣わし、皇子(後小松帝)の降誕をみたと伝えられる。これにより天皇は名を大雄山円通寺と改め、京から名僧を講じて開山させ、勅願所として帰依された。
  • しかし、足利氏が衰微、戦火がこの地にもおよび堂宇を焼失。享禄元年(1527)三木大和守直頼がこの由緒を敬慕し再興。妙心寺派の名僧、明叔和尚を講ずる。
  • 現在末寺11を数える、臨済宗妙心寺派の別格寺班である。

  • 建築物:
    • 本堂(文政12年再建)
    • 観音堂(文久3年改築)
    • 書院(文化7年補修)
    • 大庫裡(安永9年再建)
    • 勅使門(文化9年再建)
    • 山門(寛政7年再建)
    • 鐘楼(嘉永3年再建)
    • 龍翔庵(文政7年再建)
  • 文物:
    • 御円融帝御宸筆(色紙)
    • 後奈良帝御宸筆(短冊)
    • 開山明叔和尚真蹟(二副対)
    • 雪舟筆達磨像
    • 芦雪筆涅槃像
    • 狩野永徳筆菊花屏風
  • その他
    • 大杉(天然記念物:推定樹齢1200年)
    • 金森宗和による茶室と庭園

源信
942-1017(天慶5ー寛仁1)
平安中期の天台宗の僧。通称恵心僧都、横川僧都。985年に「往生要集」を著わす。これは鎌倉時代の浄土教成立の先駆的基礎。

後円融天皇
1358-93(正平13・延文3ー明徳4)北朝の第5代。

後小松天皇
1377-1433(永和3ー永享5)第100代。後円融天皇第1皇子。はじめ北朝の天皇として重祚、1392年に両朝合体成立。1412年院政。1431年出家。

禅僧 万里集九、下櫓郷へ

ばんり_しゅうく

正長元年(一四二八)~没年不詳、生地不詳。室町時代の半僧半俗の詩人。はじめ相国寺派の僧であったが、応仁の乱勃発後、近江、美濃、尾張を流寓し、その間に還俗、美濃の鵜沼に住んだ。文明十七年 (一四八五)太田道灌に招かれて江戸に下り、庵を開いて梅花無尽蔵と号した。翌年鎌倉に遊び叢社と詩文の応酬を交わした。

延徳元年 (一四八九)五月五日、関東からの帰途、越中国吉野豕谷あたりの様子はこう書かれている。

「五日。出吉野。透過豕谷之關門。始甞飛騨州山川之嶮。預想皈岐陽之旧廬翫節分。今已齟齬。
朝猶越國、晝飛騨。此日旅行、晴疊蓑。預想還家、必斟緑。人生萬時巧違多。」

訳:
長享3年5月5日、吉野を出発し、猪谷の関所を通過し、初めて飛騨国の山川の険しさを体験する。岐陽のもと居たところで五月の節分を迎えようと思っていたが、今日が5日でありすでに計画とは食い違ってしまった。
朝は越中の国であったが、昼には飛騨の国へ入った。この日の旅行は晴れたので、蓑を畳んだ。岐陽の家に帰ったら、必ず節句の酒を酌み交そうと思っていたが、人生は万事このようにまんまと食い違ってしまうことが多いものだ。

この時、集九67歳。

延徳元年 (一四八九)五月六日、飛州高原城下に到り、城主江馬某酒食を饗す、同七日、荒木安国寺に到り、集雲軒に泊し、翌日滞留、九日に江馬某人馬を給して之を送り、途中一泊、十日に国境龍ヶ峯を越え美濃郡上郡に出で、鵜沼へ帰る。

延徳三年(一四九一)八月某日、六三歳の集九は美濃国鵜沼春沢梅心翁とともに、飛州下櫓温泉に浴し、
温湯連句の作あり。二十余名の僧が従い、五十韻の連句が行われた。

集九その序を書し、文中宋人胡仔漁隠の記すを引いていう

「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者、下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」云々。

この時の様子は次の詩など。

「予在飛之温泉。々々所在、曰益田郡下櫓郷。南花丈有傳語而無箋。作詩責之云。熱湯□驗(霊驗)百痾除。僉曰濫觴延喜初。二十四亭、雲隔斷。唯聞傳語待無書。」

訳:
私は飛騨の温泉に居る。この温泉のある所は、益田郡下櫓の郷という。南花丈から伝言はあったが、手紙はなかった。そこで私は詩を作りこれを責めた。
この温泉は霊験あらたかな湯であり、どんな病気でも治ってしまう。その起源は延喜の初期であるという。
二十四の東屋は雲に隔てられて見えず、あなたの伝言は聞いたが、待てども手紙は来ない。

「山路楓葉 飛州湯中會

老眼年々、暗尚衰。温湯縦浴、奈難醫。露中不辨、聽人説。大半、山今紅葉枝。」


訳:
山路の楓葉(飛騨は下呂での会にて)
私の老眼は年々悪くなって、どんどん衰えていく。温泉に入ってもこれを治すことは難しい。
よく見えず霧の中に居るようなので、静かにして人が話すのを聞くと、誰かが「大半の山は紅葉の盛りですね。」といっている。


この老眼にとっては美しい紅葉が見えないので歯がゆい思いだろうが、当時の温泉のなん
とも長閑な雰囲気が偲ばれる。

 

*訳文は管理人による

集九のいう「霊湯」について

『日本仏教史』(辻善之助著)によれば古く風呂は寺のおこなった救済慈善の一環として作られていたという。

平安時代中期、我が国においては古くより救済慈善の業は政府においてその制度を立てて行ったのであるが、それが仏教の福田の趣旨によって促進勧奨せられたことも少なくないというのである。

温室(風呂)沐浴については寺院僧侶の手によって施設せられたことが多いが、それは『三宝絵図』の中に

「寺には月ごとに十四日と二十九日とに湯を沸かして遍く僧をして沐浴せしむ。これはその翌月に布薩
(犯戒の懺悔)を行うが為である。」

とあるように、心身を清める働きを見出していたからであった。また、温室の功徳を述べ

「七の病を除き、七の福を獲る事。」

を説いている。沸かした湯でさえ功徳あり、いわんや温泉をや、である。まさに、天然自然に湧きだす温泉は「霊湯」だったというわけである。

田の神祭りで豊作を祈る

「田の神祭り」として知られる森八幡神社の祭礼。

地元では「花笠祭り」と親しみを込めて呼ばれる。古式を残したこの祭りは昭和33年に岐阜県無形民俗文化財に指定された。
花笠祭り(田の神祭り)は2月7日から14日の本楽までの8日間にわたって行われる。田口家を中心とし、古式が順次厳修されるところに、祭礼および神事芸能としての伝統的な意義があるといわれる。

7日:テテ(神主)だのみ
田口両家および小池家の三当主が参集、祭りのテテとなるべき人へ約定をおこなう式。

9日:注連縄をない、テテおよび三当主の奉仕で、本殿、鳥居などに注連縄をめぐらす。

10日:踊り子を竹筒のおみくじで決定。

11日:田口本家にてテテの披露と試楽。

12日:テテ振寿い
小池家の奉仕により田口両家、テテ、踊り子に対して饗応の式。笠宿といわれる所属当番宿での花笠作りを途中まで行なう。

13日:試楽
花笠四蓋と寄進笠の仕上げ。夜に入り納めの試楽、白粥の饗応、獅子舞い。

14日:本楽の祭典(豊年の予祝)
午前零時半開係者が水垢離をとって神社参拝、踊り歌が唱えられる。午前九時、本楽の一般神事祭典。正午過ぎから踊り子の水垢離、門出のあいさつなどいくつもの古式を終えて、田の神祭り関係者の列
は近道を直ちに神社へ向かい、和子舞いなど渡御関係者の列は順路を大きく回って大門大鳥居へと向かう。神社へ入った田の神祭りの踊り子たちは早速「田打ち」の行事を行なうが、本来これが、豊年の予祝としての田の神祭りの中心行事である。

一方の渡御行列の獅子舞いなども境内に到着、御輿も境内を回って幣殿に渡御し終ると、田口両家、小池家の先導で太鼓、踊り歌、ササラの音に合せて、花笠をかぶった踊り子の列があらためて大門鳥居から入り、社前で踊りが始められる。そして最後に観衆や参拝者の群に、櫓から投げられる寄進笠の奪い合いなどがあり、花笠をふところに収めた社前の踊り子は、最後に田植え、稲刈り、穂摺落しの型を踊って退場、すべての行事が終了する。

「花笠祭り」の名称は、この祭りのクライマックスの華やかさ、みやびやかさに象徴される。それは、前夜試楽の厳粛な踊り歌や獅子舞い、一四日早暁、厳寒の静けさの中の水垢離や神前祭典などとは全く対象的である。
花笠祭り(田の神祭り)の起はさだかでないが、中世以来の田遊びの芸能を伝えたものであろうといわれる。田遊びは、作物の耕作の開始にあたって、種おろしから刈り上げまでの過程を模倣的に演出し、
当年もかくのごとく豊作であらしめたいと予祝するもの。「田遊び」という言葉は、東海地方を中心に伝承されている用語だが、そのもとは「田植えの遊び」ということであり、田植えそのものが歌と音楽をともない風流化される要素をもっていたからであろうといわれる。同じ行事を「田祭り」「田打ち」
と呼んでいる地方もある。しかし、現実には予祝行事として田植えより種おろしに重点が置かれ、本来正月行事となっていることも多いという。そうしてみれば、この花笠祭りの唱えことばや踊り歌にも、刈り入れまでの平穏を祈り、豊作を予祝する心がこめられていて当然である。

この祭りの伝承の深さと特異な芸能は、近世以来、注目を洛びてきた。現在この神事の古式を伝えるところは他に残り少ない。

*出典確認中